昭和レトロシリーズ第1弾【最強】伝説のハンチョウ
こんばんは、やもめパパです。
この記事は以前『昭和レトロ』シリーズと称し、昭和ならではのエピソードをつづったものでした。
今回、蔵から引っ張り出してまいりましたので、ご覧ください。
パソコンもスマホもなかったけれど緩くて自由で熱かった 昭和レトロシリーズ第1弾
令和という新しい時代が幕開けし、昭和を引き継いで31年続いた平成はその幕を閉じました。
前々回の東京オリンピックイヤーに生誕したやもめパパは【懐かしの昭和】が大好きでした。
まだパソコンもスマホもなかったけれど、すべてが緩くて自由で熱かった時代ー昭和。
【昭和56~57年】
やもめパパ、大学に進む意味を見い出せず就職を選ぶ
高校時代、成績優秀ではなかったやもめパパは高卒で就職を選んだ。
友の多くは明確な目標もなく、4年間大学に遊びに行くように見えて、その反発心もあったように思う。
各企業の求人活動が解禁になると、進学校でもなかったのに校舎の中央廊下の壁には、一面に求人票が貼られた。
今の学生が見たらビックリする程の数。そのくらいの求人があったので、そりやぁもう各種企業を選びたい放題。
私はクルマが好きだったから自動車販売会社での整備士としての道を選び、地元の千葉県と、となりの東京都から5社くらいピックアップして、総合的に条件が良かった東京の会社を選び採用試験を受験。
採用試験と言ってもいたって簡単なものだった。
いまみたいに3次面接なんてない、無い。
作文と事務的な面接だけで合格した。
社会人生活のスタート。私の配属された整備工場は整備士だけで14人もいて、一緒に入社した同期の2人と合わせると17人の大所帯となった。
その大所帯を束ねる現場のリーダーが"ハンチョウ"と呼ばれる人で、整備の技術、統率力の優れた人がなれる役職だったが、私達のハンチョウは社内でも有名人な人で、ものすごい武勇伝をもっていたのです。
身長172センチ、体重60キロ。自称、"リー・ ガンホウ"。
れっきとした日本人だが、顔つきは韓国系で眼光鋭く、身長は普通、ガタイがいいわけでなくむしろ痩せ型、だが拳を握った時の手の形にはタダならぬ雰囲気を感じ、このあと披露する武勇伝を聞いたら、その予想は見事に的中していた。
わかります?握った拳から殺気を感じたんです、ホントに。。
只者じゃないと。
当時の整備士志望者はクルマ好きのヤンチャな人が多く、ハンチョウもその例外ではなかった。
ハンチョウ、敵対する他校の生徒に拉致される
ハンチョウが整備士を目指して通っていた学校は、いつも近くの朝鮮の学校の生徒と敵対していて日頃から揉めていた。(昭和46-47年の話です。)
その中でもヤンチャなハンチョウは特に目立ってて、その学校の生徒から目をつけられていたらしい。
そんなある日、朝鮮学校の生徒が大勢で乗り込んで来た。
狙いはリー(ハンチョウ)だった。
「リーが他校の生徒に拉致された!」その噂はまたたく間に全校中に知れ渡った。
それを聞きつけたのが一番のダチだった"中野さん"。
メリケンザックやチェーンなど、すぐ調達出来る武器を携えて予測出来る現場に単身向かった。
『リーが危ない、助けに行く!』
1人で20人をブチのめす!最強伝説を作った伝説のハンチョウ
しかし、中野さんが現場に着くと思わぬ光景が。。
朝鮮学校の生徒が皆 血を流して倒れており、(その数約20人)少し息が上がっているハンチョウがそばに腰掛けてタバコを吸っていた。。。
中野さんも相当腕っぷしが強かったらしいが、今回は出る幕がなかった。
昭和の時代にはこんな武勇伝を持つ人がたくさんいました。
芸能界では宇梶剛士さんの話が有名。
今でこそ三枚目の役を上手にこなす役者さんですが、10代の頃に超メジャーな暴走族の総長を務めていた事は有名な話です。
その宇梶さん、ある時 敵対するグループと対決することがあったのですが、数は相手グループが圧倒的有利な状況。
そこで宇梶さんは開戦早々から、相手の中の強そうな奴をみつけてはバッタバッタ倒していったそうな。
で1人で20人も倒したところで、宇梶さんのあまりの強さに相手グループは戦意を失い逃げて行ってしまったというスゴイ武勇伝をもっています。
そんなハンチョウの元で整備士の基礎を学ばせてもらったが、普段厳しかった分、たまに褒められると何倍も嬉しくて、数年後にハンチョウが会社をお辞めになられた時は涙が止まらなかった。(おしまい)
〈今日のポイント〉
・就職氷河期なんて言葉とは無縁の求人数があった、これが昭和。
・"真昼の決闘"なんて令和でやったらSNSで拡散されて現行犯逮捕されちやう。
でも当時はニュースにもならない、これが昭和。