昭和レトロシリーズ第10弾 初めて手にしてナナハンのその後
前回はバイクの自動2輪限定解除後にスズキのイントルーダーのカタログキャッチコピーに心が踊って衝動的にナナハンを買い、なんと初走りで転倒をやらかし、ナナハンの持つ圧倒的なパワーに背筋が寒くなったところまでを話しました。
その後ですが、衝動買いしたこともあって、この年の秋にはもう乗り換えていました。
今日はその辺の事を話します。
前回の東京オリンピックイヤーに生誕したやもめパパは【懐かしの昭和】が大好きでした。
まだパソコンもスマホもなかったけれど、すべてが緩くて自由で熱かった時代ー昭和。
【昭和61年】遊び編
初めて手にしたナナハン
初めて手にしたナナハンの初走りで転倒した私は、少しは学習し慎重に走るようになりました。
エンジンパワーがあるだけでなく、これまでのバイクとは勝手が違うことがよくわかってきたから。
・カーブ走行中や右左折で車体が傾いている時はアクセルを開けすぎないこと。
・車体が真っ直ぐな状態でもフル加速はしないこと。(一度やってみたらフロントタイヤが暴れて暴れて超怖かった。)
・ブレーキが頼りないから注意すること。
上記のことを学習し、春には茨城県の袋田の滝へ、GWには信州へツーリングへ出掛けました。
そしてまた訪れた夏。
夏休みを利用して再び北海道に行きたいという思いが募り、今度はバイクがバイクだし、1人で北海道を走ってみようと思い決行しました。
長い期間のソロツーリングはこのときが初めて、北海道の大地をのんびり走って楽しい思い出ができました。
そう、自分のペースでのんびり走ると気持ちがいいバイクなのです。
のんびり走れば。。
ですが、その後の初秋に参加したバイク屋主催のツーリングで一気に嫌になる出来事が起きてしまったのです。
大勢のツーリングに参加したことがきっかけでその後売却
初秋にバイク屋主催の大勢の中でのツーリングに参加したのですが、そこでこのバイクの弱い面がいくつも露呈しました。
一泊で信州蓼科へツーリングに行ったのですが、皆飛ばすんですよ。
参加車はカワサキZ1100R、GPZ900R(ニンジャ改で実は1000CC)、スズキRG400ガンマ等々。
高速道路に乗るまではなんとかついていったものの、中央高速道に入るとあっという間に追いて行かれました。
事前に決めてあった休憩地点に遅れてやっと着くと、私はいくらも休憩をとれないうちにまた走り出すことを余儀なくされます。
それだけならよかったのですが、
大きなSAに着いた時はリヤタイヤのパンクが発覚しました。
修理のプロのバイク屋の社長も帯同していましたから、その場でパンク修理をいただき短時間で復帰することができましたが、社長が帯同していなかったらと考えたらゾッとしました。
参加した人達のバイクは皆チューブレスタイヤで、走行中に異物を拾っても外から楽に修理が出来ます。
かたや私のバイクはタイヤの中にチューブが入っているので、パンクしたらタイヤの中からチューブを引張り出して修理が必要なんです。
北海道のソロツーリング時にはパンク修理キットを持参してはいましたが、それを使う場面に遭遇しなくて本当に良かったと思っています。
パンク修理完了後は社長と他1-2名が遅い私のペースに合わせるように一緒に走ってくれました。
ありがたかったです。
ですが、やがて中央高速道を降り峠道に入るとその人達からも遅れ気味になりました。
それでもまだ上り道はイイのですが、下り道はブレーキが弱いのでエンジンブレーキを多用したり、乗車姿勢の観点からも非常に疲れました。
トドメになったのは、そのツーリングを終えてバイクを整備していた時にフロントブレーキのパッドがもう交換時期にきていることに気が付いたことでした。
驚くほど早く減りましたね、後にも先にもそんな経験は初めてです。
そんなこんなで乗り続けることに嫌気がさしてしまったボクは1年も所有せずに売却してしまったのでした。(つづく)
昭和レトロシリーズ第9弾 限定解除後はじめて手にしたナナハン
この昭和レトロシリーズでは前回、事前審査3回、本試験6回目でようやく限定解除を果たしたところまでを回想しました。
その後は当然のようにナナハン(排気量750CCのバイク)を手に入れます。
ですが、選んだバイクは今までの路線とは一線を画すものでした。
前々回の東京オリンピックイヤーに生誕したやもめパパは【懐かしの昭和】が大好きでした。
まだパソコンもスマホもなかったけれど、すべてが緩くて自由で熱かった時代ー昭和。
【昭和61年】遊び編
限定解除後はじめて手にしたナナハンは全くの別ジャンル
限定解除後は当然のようにナナハンを物色し始めます。
これまでの流れからいけば、仲間の所有していたCB750Fのようなロードスポーツ路線へいくはずですが、ボクが限定解除を果たしたのちに初めて手にしたナナハンは、全くの別ジャンルとなりました。
なぜなら、ある日心に響いてやまないカタログのキャッチコピーに出会い、目が釘付けになったからです。
もう37年前のカタログが未だに保管してありました、これです ↓↓
初めてカタログキャッチコピーに心躍った瞬間
カタログの表紙をめくると、「男は贅沢な生きものである。」の見出しではじまるキャッチコピーが記されていました。
初めてカタログのキャッチコピーに心が躍り購買に走った瞬間でした。
もう次はコレしかないと。
ボクは当時のバイクカタログを40年も経過した今でも後生大事にかなりの数持っていますが、キャッチコピーにメーカーが力を入れ始めたのはこのバイクが初めてじゃないでしょうか、そのくらい当時としては斬新だったと思います。
そしてそれは、バイクに乗り始めた頃から、いつかはハーレー(ハーレーダビッドソン)というボクの内なる思いを呼び戻した瞬間でした。
当時としては、一番ハーレーのスタイリングに似ていたバイクだったと思います。
納車の帰りに交差点で大転倒
このバイクには苦い思い出があります。
バイク屋さんから納車を告げられ、取りに行った日の納車の帰りでのことです。
一通りの手続きを済ませ、新車のイントルーダーに跨りバイク屋さんから自宅までの走り慣れた道をいつものように走り、交差点に入りました。
右に車体を軽く倒し、アクセルを開けたその時です。
後輪が空転したと思ったらそのまま大転倒してしまったのです。
「ガッシャーン」
何故?という驚きと恥ずかしさとで直ぐにバイクを起こし路肩に寄せました。
プラスチックの一部は破損し、ピカピカのエンジンにはこすり傷をつけてしまいました。
走行わずか1キロ足らずでバイクを傷ものにしてしまいました。
そんなに車体を深く倒し込んだわけじゃなく、アクセルだって大きく開けたわけじゃないんですが転倒してしまいました。
これがナナハンのパワーかと考えたら背筋がちょっと寒くなったことを覚えています。(つづく)
昭和レトロシリーズ 第8弾 限定解除本試験に受かった時は人生最高の喜び
前回の東京オリンピックイヤーに生誕したやもめパパは【懐かしの昭和】が大好きでした。
まだパソコンもスマホもなかったけれど、すべてが緩くて自由で熱かった時代ー昭和。
前回は、3回目でようやく自動2輪免許の限定解除のための事前審査にパスしたところまでを綴りました。
今回は、いよいよ本試験のお話です。
当時、会社の同期生や先輩には限定解除に挑戦していることを話していたのですが、「やれ無謀だ、無理だよ、ゼッタイ無理」とか散々言われておりました。
当時私はかなり痩せていて体重50キロ前後しかなかったため、お前に倒れたバイクを起こせないだろ、センタースタンドを立てられるのか?と言いたい放題言われておりました。
でもそう言われると余計にハートに火がつくんですね。
もう反骨心の塊となり、ゼッタイ限定解除してナナハンに乗って見返してやる!!!と心に誓ったのでした。
【昭和60年】遊び編
いよいよ試験コースを走る本試験に挑戦
いよいよ試験コースを走る本試験の1回目の挑戦は、全体の流れが掴めればいいかなくらいの気持ちで受験しました。
が、いざ受験してみると、前半で出てきた一本橋の途中であえなく脱輪してしまい、それ以上コースを走ることなくその時点で不合格となりました。
一本橋の形状は、『長さ15メートル、幅30センチ、高さ5センチ』の直線路で、3メートル手前の停止線からスタートします。ここを10秒以上かけて渡りきることが減点されない条件でしたが、緊張のせいかフラついてしまいあえなく脱輪してしまいました。
脱輪するとその時点で試験は中止で、不合格が確定します。
パスするためのコツは目線を遠くに、アクセルとリヤブレーキをうまく操作することでしょうか。
ギヤは1速のまま渡りきるのですが、アクセルを開け過ぎてしまうと進み過ぎてしまいバランスを崩しやすいです。
そこでリヤブレーキをうまく使って前に進む力を抑えるのです。
この受験初回に1度脱輪してからは、何度も仮想の一本橋を練習しましたので、次回以降一本橋で落とされることはありませんでした。
鬼門のスラロームはマジ難しかった
これはよくTVで白バイ隊員の訓練風景の図で出てくるので見たことがあるかもしれませんが、置かれたパイロンを引っ掛けないように車体を左右に振って通過する課題です。
これは一本橋の比でないくらいマジ難しかった。
そもそも試験車の前輪のタイヤがスゴイ片減りしていて(タイヤの設地面が均等に減っていない状態、原因には事故・整備不良が考えられる。)試験コースを普通に走ってても真っ直ぐに走ってくれない感じが常にあった!!ので、(ひどいでしょ、意図的にそうしていたとしか思えません!)そんな試験車でのスラロームはマジ難しかった。
また、エンジンガードがついてるバイクなんて普段縁がないから車幅感覚が難しさに拍車をかけたのです。
あのエンジンガードはないよなーと思いましたよ。
練習のしようがない、、
このスラロームでは試験2回連続してパイロンを引っかけてしまい不合格になりました。
練習ではエンジンガードもパイロンもなかったですけど、車体を左右に振りながらいかに超低速の車速をコントロールするかに重きをおいてやっていたように思います。
本試験挑戦4回目、いいところまで走るも減点超過で不合格
一本橋とスラロームで落ちなくなると、あとはコース上で、いかに安全確認しているかを試験官にアピール出来るかがキーポイントになってきます。
試験官にはわざとらしい位の動作が好まれるのです。
逆にそれ位しないと気がついてもらえない=減点されてしまうのです。
車線変更ひとつとっても、まずミラーを見たぞとアピールするために多めに頭をミラーに向けて振る。
数秒後にウインカーを出し、車線変更前に大げさに後方を振り返り、その後に車線変更をするという具合にです。
本試験4回目の挑戦はいいところまで行ったのですが、試験官に試験終了の合図であるホーンを鳴らされて終わってしまいました。
試験官は走りながら、減点が規定をオーバーしたことを感じると容赦なく終了の合図を鳴らすのです。
4回目の挑戦ともなると、試験コースは完璧に頭の中に入っていて、連日、部屋の勉強イスの上で繰り返し繰り返しシュミレーションを行っていました。
5回目の挑戦。
初の完走を果たしましたが、残念ながら合格には至りませんでした。
挑戦開始から足掛け半年、6回目の挑戦でついに限定解除を達成!!
6回目の挑戦は、受験挑戦からもう試験場に足掛け半年も通っており、そろそろ受かりたいと思っていました。
その日も一本橋、スラロームをなんなくこなし、安全確認もバッチリ出来て我ながら手応えを感じた中で前回から連続の完走をしていました。
しかし、完走後の試験官の講評に耳を傾けるとトーンが低い。
またダメか。。
と思っていたら、「今後の期待を込めて合格とします。」と告げられたじゃないですか。
もったいぶりやがって!
もう人目をはばからず全身で喜びを表したかったくらい、これまで生きてきた人生の中で最高の喜びの瞬間でした。
試験場をあとにする前に、確か免許証の裏面に限定解除のスタンプを押されて帰ったように記憶しています。
こうしてボクは事前審査3回、本試験を6回でパスして、晴れてナナハンライダーの切符を手にしたのでした。
昭和レトロシリーズ第7弾 2輪の免許の限定解除試験を開始
昭和60年夏。
初めて行った北海道ツーリングで、ボクはナナハンとの差を思い知らされ、自身の2輪免許証の限定解除をすることを誓いました。
当時は、試験場での一発勝負のみでした。
その時の苦労話を紹介します。(1996年9月の法改正により、現在は教習場で取得出来るようになったようですね。)
パソコンもスマホもなかったけれど、緩くて自由で熱かった昭和
前々回の東京オリンピックイヤーに生誕したやもめパパは【懐かしの昭和】が大好きでした。
まだパソコンもスマホもなかったけれど、すべてが緩くて
自由で熱かった時代ー昭和。
【昭和60年】遊び編
2輪免許の限定解除に挑戦開始するも事前審査でつまづく
2輪免許の限定解除をするためには、2つの試験をパスしなくてはなりませんでした。
まずは事前試験があり、その後に本試験に進むというものです。
挑戦開始は事前審査からでした。
ですが、ここで予想外の出来事がボクを待っていました。
審査は2種類あり、倒れたバイクを引き起こすというものと、センタースタンドを立てるというものでした。
倒れたバイクの引き起こしについては、実体験はそう多くはなかったですけど、苦もなく引き起こすことが出来ました。
が、問題はセンタースタンド立て。
こちらの方が引き起こしよりは遥かに多く日常的に行っていた動作なのに、試験車はビクともせず、あっさり不合格となってしまいました。
日をあらためて2回めの事前審査挑戦。
今度は前回のように玉砕とはいかねぇぜと、気合十分で所定の位置に手と足をかけて一気にいこうと思ったが。。
ダメだ、上がらねぇ。
力じゃないんです、、
普通なら途中から テコの原理が働いて、立つハズのセンタースタンドなのですが、2回目もビクともしなかったのです。
もう次はないと思って猛省をしました。
ボクは体は決して大きい方ではありませんでしたが、普通の体力はあるつもりでした。
あの試験車には普通のやり方は通用しない、ならば頭脳作戦で
2回も事前審査に落とされて悔しく悔しくて、事前審査を軽くみていた事を猛省し、先人や同じ時期に挑戦していた仲間と情報を共有しました。
「あの試験車の燃料タンクには重量を重くするための砂が詰めてある」
「あの試験車のセンタースタンドは テコの原理がつかえないよう加工されている」
こんな噂話が冗談とは思えない位、手ごわいセンタースタンドでした。
そこで3回目は力任せではなく、頭脳作戦を挑むことにしました。
具体的にはこうです。
通常はバイクの向いている方向と垂直に立ち、右足も垂直に向けてセンタースタンドの足かけ場所に足底を乗せて、えいやっ!って足底にパワーを集中させますが、それでは試験車のセンタースタンドは立てられない。
そこで考えたやり方は、バイクの向いている方向と平行に立ち、右足も平行に向けてセンタースタンドの足掛け場所に足底を乗せるというもの。
さらに、お尻の右側半分を後ろのコイルスプリング(サスペンション)に押し当てて、右足底に力を入れると同時にお尻でもバイクを後方に押し動かすというものでした。
この一連の動作は、仲間のZ400FX(当時の400㏄では最重量車でした。)に仲間を後ろに載せた状態で繰り返し練習しました。
そして本番の日を迎えます、3度目の正直を信じて。
3度めの正直なる
もう次はないと思って反復練習を積んで望んだ3回目の事前審査。
練習したとおりにカラダを試験車に密着させて、一気に後方へパワーを開放してやりました。
やった!3度めの正直。苦も無くセンタースタンドは立ちました。
3回目で事前審査にパスとはお粗末でしたね、、
次回は本試験を振り返ります。
昭和レトロシリーズ第6弾 初の北海道ツーリングで限定解除を決意する
最近またバイク熱が再燃したやもめパパです。
まだ若くて一番輝いていた頃が最近妙に懐かしく、年齢のせいですかね。
今回は21歳のときの夏休みを利用して行ってきた、ライダーの聖地である北海道での初ツーリングを振り返ります。
パソコンもスマホもなかったけれど、緩くて自由で熱かった昭和
前回の東京オリンピックイヤーに生誕したやもめパパは【懐かしの昭和】が大好きでした。
まだパソコンもスマホもなかったけれど、すべてが緩くて
自由で熱かった時代ー昭和。
【昭和60年】遊び編
夏休みを利用して初の北海道ツーリングを体験
昭和60年夏。
ボクは、大学に進んで前年に北海道上陸を果たした仲間に遅れること1年、北海道ツーリングの念願を果たすことになる。
東京都内の有明港から大型フェリーに揺られること33時間、北海道は苫小牧港から北海道ツーリングはスタートした。
相棒は、高校2年の時に同クラスとなってバイク談義で盛り上がって以降バイク仲間として付き合いのあったサトシ。
3ない運動が盛んだった高校で誰よりも早く中型免許を取った男であり、仲間内で限定解除したのも彼が一番乗りだった。
彼の愛車は、何年も連続でキングオブナナハンの座を保ったホンダCB750FのÇ型。
このシリーズの最終型だったと思う。
どこまでも続く平坦路でナナハンとの力の差を思い知る
私には見るものすべてが初づくしだったので、風景をゆっくり見たいという気持ちがアクセルの開度を控えめにしてしまったようで、たびたびサトシに遅れをとってしまう。
あっ、また離されてしまったと思って先を急ぐと、少し行った先で停止して待ってくれていて、合流後少し走ってはまた遅れ、待たせてしまうの繰り返し。
2人の間には無言の間が出来てしまった。。
でも走るごとに遅れをとるのは景色に見とれていることだけが理由じゃないことに気がつく。
向こうはナナハン=750CC、こちらは250CCの2サイクル。最速速度こそさして変わらないかもしれないが、常用速度域での余裕が大きく違った。
向こうはせこせこシフトダウンせずとも、アクセルひと捻りでノンビリ走るクルマをギューンと加速して追い越して行くが、こちらは2速シフトダウンしないと追い越しが出来なかった。(私の愛車:ガンマⅡ型は6000回転からバキューンと加速していくエンジン特性だったので、常にその回転をキープしていくのは厳しかった。)
決意!限定解除してナナハンに乗ってやる!!
思えば、ヤマハXJ400Dをスズキ250ガンマⅡ型に乗り換えたのは、筑波山の峠道に毎週通っていた頃、彼のヤマハRZ250RRに全く叶わなかったからだった。
ガンマⅡ型に乗り換えて、やっと肩を並べられたと思っていたら、また先を行かれるとは。
この北海道ツーリングでナナハンとの力の差を思い知らされたことにより、私は予定になかった限定解除に挑戦することになったのです。
※限定解除:バイクの免許は当時、原動機付き自転車(排気量~50CCまで)、小型自動2輪(51CC~125CCまで)、中型自動2輪(126CC~400CCまで)、大型自動2輪(401CC以上排気量制限なし)に分かれており、この時私が所持していた免許は中型自動2輪免許だった。だからナナハンに乗るためには、中型自動2輪限定の免許の限定解除をする必要があった。限定解除をすれば排気量無制限でどんな大型バイクにも乗れた。
バイク乗りにとって限定解除は、いつかは成し遂げたい夢だったのかもしれない。
夢と言ったのは、試験の難易度がかなり高いものだったため。
現代ならば教習場に通えば取得出来るが、当時は試験場での一発試験しか無かったのだ。
次回は限定解除挑戦を振り返ります。
昭和レトロシリーズ第5弾 紅葉を愛でた帰路で変態に誘われる
パソコンもスマホもなかったけれど、緩くて自由で熱かった昭和
前回の東京オリンピックイヤーに生誕したやもめパパは、【懐かしの昭和】が大好きでした。
まだパソコンもスマホもなかったけれど、
すべてが緩くて 自由で熱かった時代ー昭和。
※ほぼ時系列で過去記事にリライトをして公開しています、そのため今回はちょっと季節外れではありますがご勘弁ください。
【昭和59年】遊び編
絶景の紅葉ロードを発見し以後恒例行事となる
ここに紹介する道路は昭和59年に絶景の紅葉ロードを発見~認定を仲間うちでして、その後、毎年紅葉の時期には再訪が恒例行事になっていました。(青梅市からR411に入り柳沢峠を超えて河口湖に抜けるルート)
そんなめでたい初回の紅葉ロードの帰路で、やもめパパはショックな出来事に遭遇しました。
写真に印字され下記写真では途中切れていますが、84.11.11と入っていました。
もう遡ること38年超前である。
やもめパパ、二十歳の秋。(写真の画像が粗いですが、2台のバイクは連れのもので、CB750FCとZ400FX最終型です。
その日は朝から曇り空で、東京都青梅市に入る頃には雨が降り出しレインウエアに着替えて走ることになった。
バイク乗りにとって雨は原則天敵である。
しかし、ある程度 値の張るレインウエアを着ると雨も楽しいと思えることが度々あったこの頃。
そう、私が当時持っていたレインウエアは上下で2-3万はしたと思う。
防水性能はバッチリで、それでいてムレない通気性にも優れたレインウエアを持っていたのです。
青梅街道の町並みが、やがていい感じのワインディング・ロードになった頃、ちょうど今が見どころの紅葉が出現してきて眼を楽しませてくれた。
こんないにきれいな紅葉は初めてというくらい感動し、以降毎年秋には柳沢峠を目指してツーリングに行くのが恒例行事となった。
これは柳沢峠を通過し、山を下りきって山梨県の塩山あたりで撮った一コマ。
後方のバイクに手をかけているが、私の当時の愛車は手前のスズキRG250Γ(ガンマ)Ⅱ型。
初期型Γは初の本格レーサーレプリカということで空前の大ヒットになったが、排気音がピーピーいってて正直イマイチだった。
だから、改良されてより洗練されたⅡ型が出た時は飛びついて買ったんだ。
その後私達は河口湖まで走り、最後の紅葉を堪能した後、高速道を使って帰ったのですが、中央自動車道のサービスエリアで私は凹む体験をすることになったのです。
高速のSAのトイレで用を足していると刺すような視線
中央高速道のどこだったか忘れたが、トイレ休憩のため立ち寄ったサービスエリアで仲々出来ない体験をしたのです。
小の方をするのに便器の前に立つと、少しして刺すような視線を感じた。
左隣に立つオジさんからだった、見てるんじゃない、覗き込んでる。
今で言うガン見だ。
で見てるところは顔じゃない、用を足そうとしている下半身の方だ。
(心の言葉:食い入るように見てやがる、なんだこのオジさん?)
オジさん、言葉を発する。
「かっこいいおにんにんだね?」
(心の言葉:はぁ?何だこの返答に困る問いかけは。。こういう時は無視だ、無視)
出すもの出したので、手洗い場所へ移動する、するとオジさんも追尾してきた。
「あのね、〇〇日に渋谷でね、パーティーを開くんだよ、来れないかなぁ。」
ちょっとだけオジさんの方に目線を移すと何か地図が入ったチラシの様な紙を持っているのを確認。
(心の言葉:オジさん、男が好きな系?一見どこかの社長みたいな身なりをしてるけど、危なそうだな、無視だ無視)
すると、「ねぇ、きっと来て。」と耳元で囁くと同時に私の革パンツの上からケツの割れ目の部分に指を当てられてピィーと下から上まで触って行きやがった。。
無視を決め込んでバイクのところに急いで戻り、サービスエリアを後にした。
変態オヤジに誘われ言葉を耳元でささやかれた挙げ句にケツまで触られたなんて仲間にも言えなかった。
遠い日の苦い思い出です。
これまでだったらここで、これが昭和だ!って〆るところなんですが、男の子が好きな変態オヤジは昔も今もいます、興味がないんだったら近寄るのはやめましょう。
興味半分で近づいたら、監禁されて首輪までされて調教されてしまうかもしれないよ。
あー恐かった。
昭和レトロシリーズ第4弾 真昼の決闘。改造車と競争、その意外な結末とは?
パソコンもスマホもなかったけれど、緩くて自由で熱かった昭和
まだパソコンもスマホもなかったけれど、すべてが緩くて
自由で熱かった時代ー昭和。
【昭和58年】遊び編
バイク仲間と浦安の防波堤へ。そこで誘いにのって改造車と競争することに
その日はバイク仲間と午後から東京ディズニーランドのお膝元、千葉県浦安市に出かけていた。
ウチからバイクで1時間かからないで行ける距離のため、海が見たくなるとふらっとよく出掛た場所だった。
前年念願のバイクの中型免許を取得した私は、最初中古で250CCのバイクを買ったが、物足りなくなって1年乗らずで乗り換えていた。
次に買ったのは、ヤマハXJ400D。
この頃の400CCクラスのバイクは、前年封切られた近藤真彦主演の"ハイティーンブギ"という映画の影響が少なからずあり、ホンダのCBX400Fというバイクが売れまくっていた頃で、私のXJは完全に影に隠れた存在だった。
購入後、バックステップ(足を乗せる部分、それを標準より上方、かつ、後方へ移した。標準だとカーブで車体を倒し込んだ時にステップが道路面に当たることがあったため。)と、ハンドルを左右分割式のセパレートハンドルに変更して乗っていた。
バイク仲間は皆ノーマルで乗っていたので、私のバイクが目立ったのか、一人のドライバーから声がかかった。
「今日はさ、パーツ交換した部分のテストを兼ねてきたんだけどさ、ねぇ、向こうの先まで競争しない?」
その男のクルマは仕事柄ほとんど毎日見ているクルマ、トヨタセリカXX「ダブルエックス」だった。
エンブレムから2000CCのターボ付きと判断。
外観だけでなく、きっとエンジンもチューニングしているんだろうなという雰囲気を醸し出していた。
改造車と競争、その意外な結末
少し考えてると仲間が背中を押してきた、で競争することに___。
競争期間は400m位だったか。
「最高速ならクルマに分があるが、加速勝負のこの距離なら勝てるでしょ?』
仲間の合図と同時にスタートを切る。
2速⇒3速⇒4速⇒5速。出だしはこちらが早かったが、途中から「キーン」という大きなターボ音を轟かせて後方から迫り、あっという間に追いていかれた。
完敗だった。
「もう一回勝負しようよ。」「やりましょう。」
今度は本気出す、リベンジだ。
スタート前にエンジン回転を7000回転くらいまで上げておいて、前輪が持ち上がらないようにクラッチをつなぐ。
上体は燃料タンクの上に胸を這わせ、エンジン回転をレッドゾーン手前まで引っ張って シフトアップを続けた。
「今度はいけるか?」
が、またしても明らかにノーマルではないターボ音が聞こえてきて、抜かれてしまう。
その直後だった。
「プシュー_______________。」
男のクルマのボンネット脇から白い煙が吹き上がり失速、私が抜き返したところで力なく止まってしまった。
引き返してクルマに駆け寄った。
ボンネットを開けると多量の水が吹いた跡が確認できた。
ドライバー曰く、ターボチャージャーをノーマルから社外品に換装し、テストのためココに来たが、必要以上に過給圧を上げたことによりヘッドガスケットが抜けたと思うと解説していた。
(エンジン内部に想定以上の圧がかかったことで気密が保持できなくなり一部の部品が破裂したような状態。)
勝負に負けたけど勝った!?
「悪いんだけど、ショップに連絡してクルマを取りに来てもらう手配をしたいので、公衆電話がある所まで後ろに乗せてって欲しい。」
いきががり上、置いていくわけにもいかずOKした。
しかしそこで問題が。男の頭が大きすぎてヘルメットが入らなかったのだ。
仕方なくおでこ位まで被ってもらいバイクの後ろに乗せて公衆電話まで走らせた。
レッカーの手配を終えて防波堤まで戻り、ドライバーにはいたく感謝され、その場を仲間とあとにしたのだった。
《これが昭和だ!》
今じゃ撤去されてしまい、見つけるのは至難の技になったけど、スマホはおろかポケベルもなかった頃、出先での通信手段は公衆電話だった、これが昭和。