昭和レトロシリーズ第3弾 元ヤン兄さんとノーヘル2ケツで爆走体験
- パソコンもスマホもなかったけれど、緩くて自由で熱かった昭和
- 17歳から26歳まではクルマじゃなくてバイクにハマってました
- 先輩の卒業式の日を狙って原付き免許を取りに行きました
- 隣家の元ヤン兄さんに誘われノーヘル2ケツ体験
- 兄さんがヤンチャだった頃の話に耳を傾けて
パソコンもスマホもなかったけれど、緩くて自由で熱かった昭和
前々回の東京オリンピックイヤーに生誕したカーペンターyuzoは【懐かしの昭和】が大好きでした。
まだパソコンもスマホもなかったけれど、すべてが緩くて
自由で熱かった時代ー昭和。
【昭和56年】遊び編
17歳から26歳まではクルマじゃなくてバイクにハマってました
男の子の多くが幼児期に乗り物に興味を示す傾向があるように思います。
うちの長男も"働くクルマ"が大好きで、それらを街で見つけてはキャッキャッ言ってました。
その親父である私もクルマが大好きで、年頃になると自転車をちょっといじって乗っていました。
でも人力だから走れる距離はたかが知れています。(超人的な体力と根性があれば自転車で日本一周も出来ますが、私は無理です。)
もっと遠くまで行ってみたい。
そうするとエンジン付きのバイクが欲しくなってきます。
しかし、千葉県はバイク3ない運動という、「免許を取らせない、バイクを買わせない、バイクに乗らせない。」を推進しており、堂々とは乗れなかったのです。
先輩の卒業式の日を狙って原付き免許を取りに行きました
でも、バイク雑誌を見たり、クラスのちょっとトッポイ奴のバイク搭乗談を聞かされるにつけ、だんだん我慢が出来なくなってきました。
内緒でバイクに乗ってることがバレて停学になるクラスメートを近くで見ました。
また、免許取得のために運転免許試験場に行くと、入り口に先生が立っていて捕まるとかいう噂もありました。
でももうバイクに乗りたいという衝動は我慢が出来ないくらい高まってしまい、ある日決行してしまいます。
原付きの免許を取得すべく受験日に選んだ日は、いっこ上の先輩の卒業式にしました。
さすがにその日は先生も運転免許試験場の入り口に立ってはいないだろうと思い。。
さらに当日は、中卒で働いていますの体でオヤジの着ていた作業着を羽織って試験場にのりこむ用心深さ。
予想通り試験場入り口に学校の先生の姿はなく、試験の方も一発で合格しました。
その後、親の反対もありましたが、半ば強行的にバイクも買ってしまいました。
バイク3ない運動で禁止されていたことを全部破りました。
隣家の元ヤン兄さんに誘われノーヘル2ケツ体験
ある日の休日、家の前でバイクの洗車とワックスがけをしていると、隣家の兄さんが大きいバイクで出掛けて行くところを見かけました。
兄さんはハンドル、シート、マフラーを変更されてました。
時々見かけては羨望の眼差しで見ていたものです。
ですが、この日は少しして帰って来られ、声をかけてくれました。
「いつもキレイにしてるね、コレの後ろにみるかい?」と言って、兄さん、リヤシートを指差しました。
「は、はい!」 もう二つ返事でした。
ヘルメットを取りに行こうとすると、兄さん早く乗れと言わんばかりにアクセルを吹かしてました。
まっいいかと思い、リヤシートに跨ると、足を乗せるステップが意味がわからないくらい上の方に移動してて、ウンコ座りのような態勢。
「しっかり掴まって!」の合図とともにフル加速。
シートのベルトを必死に掴んでました。
原付きバイクの比ではない加速感。
と同時に走行中、学生とすれ違う場面もあり、面が割れたらどうしようという心境でした。。
2キロ位走って戻り、バイクから降りると興奮と罪悪感からかヒザの震えがとまりませんでした。
兄さんがヤンチャだった頃の話に耳を傾けて
その後私は兄さんの部屋に招かれ、兄さんは昔の写真を見せてくれました。
「おばさん(うちの母)には言わないでよ、俺、暴走族入ってたからさ。」
と言って見せてくれたのがこんな写真。
バイクが好きで、とりわけKAWASAKI党の人だったら知ってると思いますが、伝説の"マッハⅢ"に乗ってヤンチャしてたらしいです。
所属していたグループも教えてくれましたが、関東では有名なグループでした。
どうりで躊躇なくノーヘルで突っ走るわけです。
私はこんな体験もあって、翌年にはより大きいバイクに乗るためにバイクの中型免許を取得し、250CCのバイクに乗り始めるのでした。
《これが昭和だ!》
当時の土曜の夜は暴走族が街中を爆走してたので、騒音がすごかったんですよ。
途中からパトカーのサイレンも混じってね、聞こえ始めるとしばらくやまなかった、これが昭和。
良い子のみんなは、バイクに乗る時はヘルメットを着用しなきゃダメだぞ。
昭和レトロシリーズ第2弾 下戸には辛かった飲み会の席
パソコンもスマホもなかったけれど、緩くて自由で熱かった昭和
前々回の東京オリンピックイヤーに生誕したカーペンターyuzoは【懐かしの昭和】が大好きでした。
まだパソコンもスマホもなかったけれど、すべてが緩くて自由で熱かった時代ー昭和。
【昭和57年ー暫くの間】
下戸には辛かった飲み会の席
社会人になるとお酒の席に出る機会が出てきました。
お酒殆ど飲めなかったのに。。
苦痛でしかなかったですね。
現代みたいに、何か都合をつけては飲み会に出ないことが許されない時代でした。
飲み会より優先される行事はないと位置づけられていた時代。
そもそもまだ18歳だったんですけどぉ~。
なんの遠慮もなく普通に飲まされた。
私は年齢よりかなり若く見られていたので、現代だったら「18歳未満にお酒の提供はお断り!!」と、きっと問題になったと思います。
新人歓迎会でゲロゲロ祭り
最初の洗礼が新人歓迎会でした。
私を含めた新人の3人が主役だから当然飲まされました。
次から次と酌しに来るんです、来なくていいのに。。
勝手に飲んでますからって言いたかったけど、そんなこと言ったら大変だから。。
整備の先輩だけで14人もいるから、開始早々に心臓がバクバクなってきました。
後半になるにつけ、一口飲むのがもうやっとでした。
が、体育会系の先輩達は私がコップの中のビールを飲み干すまで対面に座り続け、持ったビール瓶を降ろさないのです。
これが超プレッシャー。
多分それまでの人生の中で最大のビール量を体内に流し込んだことで、ゲロをトイレまで我慢出来ず、お店の2階席から下の歩道に向けてゲロゲロしてしまいました。
お店の慰安旅行がまた辛い、なぜなら帰れないから
年に1度のお店の慰安旅行も辛かったですね。
なぜなら家に帰らないから。
逃げ場がない。
誰が考えたのか、ビールストロー飲み競争というのがあって、文字通り、ストローでビールを早く飲んだ者が勝ちという競争なのですが、ストローで飲むと余計に酔いが回るんですよ。
その時もゲロゲロ祭りでした。
こんな憂鬱な飲み会はその後 何年間も続き、ようやくお酌をされなくなったのは社内で( 店舗内で) 管理職についた頃でしょうか。
現代は、飲み会の日に用事があることにしなくても、「そういう会には出ません。」とハッキリ言える風潮があるらしいですね。
下戸の人にはいい時代になったものです。
私は自分が管理職になっても、自分がされて嫌だったことを部下にはしたくなかったので、飲めない子に酌はしなかったです。
《これが昭和だ!》
・飲み会は絶対参加、欠席は許されない、18歳でも普通に飲まされる、これが昭和。
・酌しにくる先輩方は、私のコップの中のビールが飲み干されるまで席を移動してくれない。
ビールが無くなるまで持ったビール瓶を降ろさないでプレッシャーをかけまくる、これが昭和。
・パワーハラスメントなる言葉はかけらもない、これが昭和。
私史上、最も運転が楽しいと思えたクルマはコレ、未だ超えるものなし
- クルマ大好きの私史上、最も運転が楽しいと思えたクルマ。未だ超えるものなし!
- 豊田社長も本気になったトヨタ86開発ストーリー
- 感動の試乗が先輩の快諾により実現
- 驚愕のハンドリングと官能的なエキゾーストサウンド
- コレはまるで生きているかのようなオートマチックトランスミッション
今も昔もクルマ大好きの私が、私史上、最も運転が楽しかったクルマは何?と問われたら即答します。
2代目ハチロクです。
1代目のハチロクは1983年デビューなものの、漫画の主人公が駆る相棒として人気に火がつき、今やプレミア価格で取引されています。
私が推す1番は、そのハチロクの2代目になります。
デビューは2012年ですから、もう10年を経過してますが、ハンドルを握った時のあの衝撃は今も脳裏に焼き付き、コレを超えるクルマは未だなし、です。
当時の私は自動車販売会社の人事採用担当をしていたので、この記事はマイナビの企業紹介のところでもしばらく掲載をしていました。
それではどうぞ。
クルマ大好きの私史上、最も運転が楽しいと思えたクルマ。未だ超えるものなし!
私、幼児期のミニカーに始まり、小学校に上がる頃には、街ですれ違うクルマのメーカー名とモデル名がすべて答えられたというくらいクルマ大好き少年でした。
中学に上がると、世には"スーパーカーブーム"が巻き起こり、私も例外に漏れずカメラ片手に高級外車を追っかける日々を過ごします。
そして高校時代の就活時には、その流れからクルマ屋さんを選ぶことになります。
メーカーは現在も国内ナンバー1をひた走る、愛知県は豊田市に本社を構えるメーカーの都内の直営デーラーでした。
そこでは1982年の入社から退職までの約32年、私は数え切れないほどのクルマを運転してきましたが、運転が楽しいと思えたクルマ歴代NO,1は今でもこれで、未だ超えるものはありません。
豊田社長も本気になったトヨタ86開発ストーリー
カタログのキャッチコピーが泣かせます、
「日本人の大人たちが長い間忘れていたこと」ですよ!!
そう、私の世代より上の人達は、今よりうんとアナログなクルマを楽しそうに乗っていたと聞きます。
今より遥かに精度の低いクルマであったかわりに、自分でイジれる楽しさ、操る楽しさがあったと聞いています。
例えば箱根の山を登りながら、キャブレターのメインジェットを替えて調整しながら登ったとか、、何もかも電子制御の今では考えられないことをしていたのです。
でもクルマが進化するにつれ、故障は起きづらくなり、イジれる箇所は減っていって、クルマは単に快適な移動手段に成り下がってしまった。
もっと楽しい乗り物だったのに、、とこのクルマを作った人は思っていたに違いありません。
豊田章男社長も運転する喜びを感じられるクルマをまたつくろうと、本気になって開発段階からいろいろ注文を出したそうです。
社長がクルマ作りに細かい指示を出すんですよ、、、通常はありえないことです。
どれほどこのクルマに注ぎ込んだ思い入れが大きかったかがわかろうというもの。
そうして2012年、これまでの熱い開発ストーリーを経て、ふたたび86は世に出たのです。
※正確にいうと1983年に発売された通称86は、カローラレビン/スプリンタートレノの名称で世に出まして、通称の86は車輌型式のAE86から そう呼ばれるようになりました。
感動の試乗が先輩の快諾により実現
以下は2012年当時の感動の試乗記になります。
あれから数日経つというのに、もう次の再会が楽しみでなりません。
それはまさにハチロクのカタログの中のキャッチコピー、
「ハチロク。トヨタが、そして日本の大人たちが長い間忘れていたこと」
そのものでした。
待ち合わせの最寄り駅で待つこと数十分、排気音に振り返るとブルーの、ナンバー86が私の前に横づけされました。
オーナーは私の先輩で、公私にわたる師匠です。
今回の試乗は先輩が購入した噂を聞きつけ、その先輩が企画したゴルフコンペに参加すればコースまでの往復路を運転させてもらえるかと打診したところ、快諾して下さって実現したものだったのです。
驚愕のハンドリングと官能的なエキゾーストサウンド
車内に乗り込むと、トヨタで一番ヒップポイント(※1)が低いと聞いていたものの、思いのほか視界は良好でした。
走り出してすぐにこれでノーマル?と感じるほど足回りが固いことに気がつきました。
やがて高速道に入っていくのですが、そのハンドリングに驚愕します、意のままに曲がっていくのです。
高速道路の料金所を抜けて高速道本線に入る途中に長いカーブがありますが、ほんの少しハンドルを切っただけで方向が変わる、これほどダイレクトなハンドリングをもつ車には国産、外車でもお目にかかったことがありませんでした。
それほど素晴らしかったです。
本線に入る際、遠慮しつつ加速してみました。
サウンドクリエーター(※2)のせいか、前からはエンジン吸気音が、後ろからはTRD製の4本出しのタイプに交換されたマフラーからクルマ好きにはたまらない官能的なエキゾーストサウンドを奏でていました。(もちろん車検対応用のマフラーです。)
普段マイカーで高速道を走る時は、私の子供たちがまだ小さいこともあり、追い越し車線にはほとんど出ないのですが、この日ばかりは追い越し車線は譲れない心境になっていました。
年甲斐もなく血がたぎってしまったのです。
抑えられない感情でした。
ハチロクで高速道を走る際はレーダー探知機の装着が必須だと思いました。
抜群の走行安定性能に加え、速度計の頂点が260キロ表示となっているので常用速度域だと全然速く感じないのです。
コレはまるで生きているかのようなオートマチックトランスミッション
高速道を降り一般道に出てほどなくして、新しい感激を味わいました。
先輩のハチロクは6速オートマチックトランスミッション車だったのですが、マニュアルモードを選択して5,4,3とシフトダウンしていくとコンピューターがブリッピング(エンジンの空吹かし)しながら減速してくれるのです。
これはマニュアルミッション車で行うダブルクラッチ(※3)の操作に相当します。
コレがまるで生きているかのようにタコメーターの指針が振れていました。
ゴルフを楽しんだ帰路も運転させていただきました。
いつもなら退屈で眠気が襲ってくるのですが、今日は興奮して全くそんなことはありませんでした。
馬力だけに着目したらハチロクより速い車はたくさんあるでしょう。
でもこの車は数値では計れない、ドライバーの感性に語りかけてきます。
このページを覗いているあなたにもぜひ乗って体感してほしいです。
きっとまたその次も乗りたいと思うハズ。
最後にこの先輩のハチロクには、すでにもう1台ハチロクが買える位のパーツ代がかかっていたことをお伝えしておきます。
なんて潔いお金の使い方なんでしょう!
注1:シートに着座した時の腰の高さ。この数値が低いほど一般的には前方視界は悪くなる。
注2:エンジンの音が車内に入るよう作られた仕掛け。一般的には走行時の静粛性をあげるために採用しないが、ハチロクには吸気音、排気音も楽しんでもらおうとあえて採用された。
注3:必要以上に車両が減速しないように考えられたテクニック。
マニュアルミッション車で、クラッチを切る → エンジンを空ぶかしする → シフトダウンする をほぼ同時に行う。そうすることでエンジンブレーキが必要以上にかからず、次の加速態勢に入りやすくなる。昔のレーサーは皆行った操作です。
【試乗日:2012年5月、行き先:茨城県の石岡カントリークラブ】
昭和レトロシリーズ第1弾【最強】伝説のハンチョウ
こんばんは、やもめパパです。
この記事は以前『昭和レトロ』シリーズと称し、昭和ならではのエピソードをつづったものでした。
今回、蔵から引っ張り出してまいりましたので、ご覧ください。
パソコンもスマホもなかったけれど緩くて自由で熱かった 昭和レトロシリーズ第1弾
令和という新しい時代が幕開けし、昭和を引き継いで31年続いた平成はその幕を閉じました。
前々回の東京オリンピックイヤーに生誕したやもめパパは【懐かしの昭和】が大好きでした。
まだパソコンもスマホもなかったけれど、すべてが緩くて自由で熱かった時代ー昭和。
【昭和56~57年】
やもめパパ、大学に進む意味を見い出せず就職を選ぶ
高校時代、成績優秀ではなかったやもめパパは高卒で就職を選んだ。
友の多くは明確な目標もなく、4年間大学に遊びに行くように見えて、その反発心もあったように思う。
各企業の求人活動が解禁になると、進学校でもなかったのに校舎の中央廊下の壁には、一面に求人票が貼られた。
今の学生が見たらビックリする程の数。そのくらいの求人があったので、そりやぁもう各種企業を選びたい放題。
私はクルマが好きだったから自動車販売会社での整備士としての道を選び、地元の千葉県と、となりの東京都から5社くらいピックアップして、総合的に条件が良かった東京の会社を選び採用試験を受験。
採用試験と言ってもいたって簡単なものだった。
いまみたいに3次面接なんてない、無い。
作文と事務的な面接だけで合格した。
社会人生活のスタート。私の配属された整備工場は整備士だけで14人もいて、一緒に入社した同期の2人と合わせると17人の大所帯となった。
その大所帯を束ねる現場のリーダーが"ハンチョウ"と呼ばれる人で、整備の技術、統率力の優れた人がなれる役職だったが、私達のハンチョウは社内でも有名人な人で、ものすごい武勇伝をもっていたのです。
身長172センチ、体重60キロ。自称、"リー・ ガンホウ"。
れっきとした日本人だが、顔つきは韓国系で眼光鋭く、身長は普通、ガタイがいいわけでなくむしろ痩せ型、だが拳を握った時の手の形にはタダならぬ雰囲気を感じ、このあと披露する武勇伝を聞いたら、その予想は見事に的中していた。
わかります?握った拳から殺気を感じたんです、ホントに。。
只者じゃないと。
当時の整備士志望者はクルマ好きのヤンチャな人が多く、ハンチョウもその例外ではなかった。
ハンチョウ、敵対する他校の生徒に拉致される
ハンチョウが整備士を目指して通っていた学校は、いつも近くの朝鮮の学校の生徒と敵対していて日頃から揉めていた。(昭和46-47年の話です。)
その中でもヤンチャなハンチョウは特に目立ってて、その学校の生徒から目をつけられていたらしい。
そんなある日、朝鮮学校の生徒が大勢で乗り込んで来た。
狙いはリー(ハンチョウ)だった。
「リーが他校の生徒に拉致された!」その噂はまたたく間に全校中に知れ渡った。
それを聞きつけたのが一番のダチだった"中野さん"。
メリケンザックやチェーンなど、すぐ調達出来る武器を携えて予測出来る現場に単身向かった。
『リーが危ない、助けに行く!』
1人で20人をブチのめす!最強伝説を作った伝説のハンチョウ
しかし、中野さんが現場に着くと思わぬ光景が。。
朝鮮学校の生徒が皆 血を流して倒れており、(その数約20人)少し息が上がっているハンチョウがそばに腰掛けてタバコを吸っていた。。。
中野さんも相当腕っぷしが強かったらしいが、今回は出る幕がなかった。
昭和の時代にはこんな武勇伝を持つ人がたくさんいました。
芸能界では宇梶剛士さんの話が有名。
今でこそ三枚目の役を上手にこなす役者さんですが、10代の頃に超メジャーな暴走族の総長を務めていた事は有名な話です。
その宇梶さん、ある時 敵対するグループと対決することがあったのですが、数は相手グループが圧倒的有利な状況。
そこで宇梶さんは開戦早々から、相手の中の強そうな奴をみつけてはバッタバッタ倒していったそうな。
で1人で20人も倒したところで、宇梶さんのあまりの強さに相手グループは戦意を失い逃げて行ってしまったというスゴイ武勇伝をもっています。
そんなハンチョウの元で整備士の基礎を学ばせてもらったが、普段厳しかった分、たまに褒められると何倍も嬉しくて、数年後にハンチョウが会社をお辞めになられた時は涙が止まらなかった。(おしまい)
〈今日のポイント〉
・就職氷河期なんて言葉とは無縁の求人数があった、これが昭和。
・"真昼の決闘"なんて令和でやったらSNSで拡散されて現行犯逮捕されちやう。
でも当時はニュースにもならない、これが昭和。
遺言書を考える歳になったか
最近時々思うことがあるのです。
一人また一人先輩方が亡くなって、少しずつではあるが''自分の番'が繰り上がってきているんじゃないかと。
そして考えるのです、
なんの備えもしないでぽっくり逝ってしまったら、残された人が後始末に苦労するだろうと。
だから遺言書を作っておくべきなんじゃないかと。
私はハンドルネームが表すとおり、やもめなので今は一緒に住む家族はいません。
一緒に住む人がいるならば、日頃から大事なものの置き場所とかを伝え合っておけばよいと思うのですが、私のように独り住みの者は、その手が使えません。
さらに言えば、ネット界隈で使用するIDやPWが多すぎて、自分でも管理に困るくらいなのです。
本人ですら、そんな状態なので、私が何の備えもせずに逝ってしまったら迷惑をかけるなと考えたのです。
普段から印鑑&通帳の置き場とか、PWを書いた一覧の置き場を伝えておいて、いざ逝ってしまったときには財産というほどの物はありませんけど、後始末つけてもらうためにわかるようにしておいた方がいいなと考えるようになったのです。
これ、健康なうちはいいですけど、なにせ独り住みなんだから、迷惑を最小限に食い止めるために近々で一度書き出してみたいと思いました。
そんな歳になったのかと思うとしんみりします。
40年前の悪ふざけ
今年、東京ディズニーランドは開園40周年を迎えるんですね。
もうそんなになるか、、
題して今だから言える"40年前の悪ふざけ"を白状します。
その年、私の住む県では、壮大なレジャー施設がオープンを控えていた。
老若男女を問わず、誰しも心待ちにしていた一大施設だ。
ムクムクと心の中で、「オープンしてしまったら二度と撮れないであろう奇跡の1枚をカメラに収めたい。」という衝動にかられた。
そしてある日決行にすることになった。
夕焼けがきれいだった時刻に、俺とバイク仲間の一人は、オープンを控えた施設の近くを流していた。
手始めは、まだ開通前の片側2車線の道路。
おそらく手前は軽くバリケードがあったであろうと思われるが、難なく中へ。
クルマはおろか、人さえいない。2人は思い思いのポーズをとってカメラに収めた。
「よし、中に入ろう。」
奇跡の1枚とは、クルマが1台も駐車していない広大な駐車場の写真を意味していた。
施設がオープンしたら最後、クルマが1台も駐車していない写真は2度と撮れないと考えたのだ。
だからその瞬間をカメラに収めるならオープン前の今しかないと。
気がつくと俺たちは広大な駐車場におり、願い通り1台もクルマが駐車されてない状態をカメラに収めることが出来た。
その時だ、「コラー~~」
達成感もつかの間、はるか先から警備員と思われる人物がこちらに向かって走って来るではないか、、
速攻で退散した俺ら。
あれから40年。
奇跡の1枚を収めた数ヶ月後にオープンした施設には、度々お世話になっております。
それが東京ディズニーランドで起こした、40年前の悪ふざけ。
はてなブログからメールが!2年前はこんな記事を書いていました
不定期ではてなブログからあなたは1年前こんな記事を書いてましたよ的なメールが届くようだ。
今日も届いていて、1年前も2年前も、計画したかのように趣味のバイクの記事を書いていた。
現在は売ってしまってないのに。。
思えば2年前、30年ぶりにライダーに戻った。
いわゆるリターンライダーってやつ。
家族と離れるにあたり、車はおいてきたので足がなくなったからね。
で、どうせならボケ防止にギア付きのバイクがいいやってことで、維持費も安い125CCをチョイスしました。
でも普通にバイク屋から買ったのでは高いので、はじめて乗り物をヤフオクで買ってみました。
オークションだったのに、ライバルらしい人は現れず、ほとんどボクの言い値で落札しました。
ですが、買ってからが金食い虫!不幸のはじまりでした。
前後タイヤ交換に始まり、前後のブレーキパッド&ブレーキシュー、バッテリ、極めつけはフロントショックの片側からオイル漏れし始めたこと。
これが部品調達するのが大変でした。
スズキのエンブレムはついていたけど中華製バイクだったので、バイク屋はどこも修理を断るし、ならば部品だけでもと探すが、最初はお手上げ状態だった。
ですが、捨てる神あらば拾う神ありで、ヤフオクで中古の再生品の左右アッセンブリセットを廉価で見つけたのです。
部品さえあれば自分でやる気でした、一応整備士資格を持ってるので。。
こうして、1個1個悪いところを直していったんですけど、最後にブレーキがいかれてしまい、この先いくらかかるかわからんかったので、バイク王に買い取ってもらいました。
1年前の記事のハーレーダビッドソンのことはまた次回書きます。